富本銭とは?683年説・飛鳥池遺跡の発見から和同開珎との違いまで徹底解説
日本最古の貨幣といえば、長らく「和同開珎(わどうかいちん)」が知られてきました。しかし、奈良県の飛鳥池遺跡で発見された「富本銭(ふほんせん)」によって、日本の貨幣史は大きく見直されることになります。富本銭は、708年に発行された和同開珎よりも古い、7世紀後半の鋳造貨幣と考えられているのです。
注目すべきは、富本銭がいつ造られたのかという年代の問題だけではありません。天武天皇12年にあたる683年の記録との関係、無文銀銭との違い、実際に人々の売買に使われたのか、それとも災いを避けるための「厭勝銭(えんしょうせん)」だったのか。2026年には飛鳥池遺跡出土品の国宝指定に関する動きもあり、富本銭は古代国家の成立と経済の仕組みを考えるうえで、改めて重要な存在となっています。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 最古級の鋳造貨幣:富本銭は7世紀後半に造られたと考えられ、708年発行の和同開珎より古い。
- 683年との関係:『日本書紀』の銅銭使用に関する記録と結び付けられているが、鋳造開始年を683年と断定できるわけではない。
- 最大の謎は流通の実態:貨幣として流通した説と、まじないに用いる厭勝銭だったとする説があり、価値や流通範囲にも未解明の点が残る。
【富本銭とは】日本最古の鋳造貨幣と呼ばれる理由
富本銭は、飛鳥時代の7世紀後半に造られたと考えられている銅銭です。読み方は「ふほんせん」。資料によっては「富夲銭」と表記されます。
丸い外形の中央に四角い穴が開き、表面には「富本」の文字と七つの星の模様が配されています。この円形方孔銭という形式は、後世の日本や東アジアの銭貨にも見られる特徴です。
三菱UFJ銀行貨幣資料館の解説によると、富本銭の平均的な直径は約2.44センチ、厚さは約1.5ミリ、重さは約4.25〜4.59グラムです。唐の銅銭である開元通宝(かいげんつうほう)と、大きさや重さがほぼ同じ規格で造られていた点も注目されています。
富本銭が日本貨幣史を塗り替えた最大の理由は、実際に鋳造されたことを示す考古資料が発見されたことです。完成品だけでなく、未完成品や鋳型、鋳造に使われた鋳棹(いざお)などが出土し、古代の工房で生産されていた事実が明らかになりました。
ただし、「日本最古の貨幣」という表現には注意が必要です。富本銭より前の段階には、無文銀銭(むもんぎんせん)も存在しました。そのため、富本銭は特に「日本最古級の鋳造貨幣」として理解するのが適切です。お金の起源全体と、金属を型に流し込んで造った銭貨の起源は、区別して考える必要があります。
【683年説を検証】富本銭はいつの時代に造られたのか
富本銭の鋳造年代を考えるうえで重要なのが、飛鳥時代の天武天皇の治世です。一般には7世紀後半の銭貨とされ、683年頃に造られた可能性が論じられています。
その根拠の一つが、歴史書『日本書紀』の天武天皇12年、すなわち683年の記事です。そこには、銅銭を用い、銀銭を用いないよう命じた趣旨の記録があります。
日本銀行金融研究所の貨幣博物館では、この記録に登場する銅銭を富本銭、銀銭を無文銀銭と関連付けて解説しています。富本銭の出土によって、文献に記された政策と実物の銭貨を結び付けて考えることが可能になりました。
しかし、683年という年は、富本銭そのものに刻まれた製造年ではありません。『日本書紀』の記述と、遺跡の年代や出土状況を組み合わせて考えられているのです。
つまり、「683年に富本銭が発行された」と断定するよりも、「683年の銅銭使用政策に富本銭が関係していた可能性がある」と理解するほうが正確です。鋳造開始の具体的な年、政策の実施状況、当時の人々がどのように銭貨を使ったのかについては、引き続き検討が必要です。
この問題の背景には、7世紀後半の日本が中国・唐の制度や文化を取り入れながら、中央集権的な国家体制を整えていた事情があります。貨幣の製造は、単に買い物のためのお金を用意するだけでなく、国家の権威や行政制度を形にする試みだった可能性もあります。
【発見の経緯】飛鳥池遺跡が日本の貨幣史を変えた
富本銭の研究を大きく前進させたのが、奈良県明日香村にある飛鳥池遺跡です。ここは7世紀後半を中心とする大規模な工房遺跡で、宮廷や寺院を支える多様な製品の生産が行われていた場所と考えられています。
三菱UFJ銀行貨幣資料館の解説によると、富本銭は1985年に平城京跡で和同開珎などとともに発見された例が知られています。その後、飛鳥池遺跡の調査が進み、1998年の発掘では約40枚の富本銭が見つかりました。
この発見が画期的だったのは、銭貨だけが出土したのではなかった点です。完成品や失敗作に加え、鋳型、鋳棹などの鋳造関連資料も確認されました。銭貨が偶然持ち込まれたのではなく、その場所で実際に造られていたことを示す重要な証拠です。
奈良文化財研究所によれば、遺跡は1991年の調査で確認され、1997〜1999年の発掘調査によって工房群の全容が明らかになりました。金・銀・銅の加工に加え、ガラスや漆などを扱った痕跡もあり、飛鳥時代の高度な生産技術と国家的な物資供給の実態を知ることができます。
富本銭に関する主な出来事を整理すると、次のようになります。
| 時期 | 出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 7世紀後半 | 富本銭が造られたと考えられる | 日本における初期の鋳造貨幣の成立を示す |
| 683年 | 『日本書紀』に銅銭と銀銭に関する政策が記される | 富本銭と無文銀銭の関係を考える重要な手掛かり |
| 708年 | 和同開珎が発行される | 国家による本格的な貨幣流通の展開につながる |
| 1985年 | 平城京跡で富本銭の出土例が知られる | 和同開珎以前の銭貨を考える研究が進展 |
| 1991年 | 飛鳥池遺跡が調査で確認される | 7世紀後半の工房遺跡の研究が始まる |
| 1997〜1999年 | 奈良文化財研究所などが発掘調査を実施 | 富本銭の鋳造を裏付ける資料群が明らかになる |
| 2025年9月 | 飛鳥池遺跡出土品が重要文化財に指定される | 貨幣だけでなく国家的工房を示す資料群として評価 |
| 2026年3月 | 文化審議会が国宝指定を答申 | 古代の生産技術と国家形成を示す資料として評価が高まる |
2026年には、文化審議会が飛鳥池遺跡出土品の国宝指定を答申しました。奈良文化財研究所や文化庁の公表資料では、富本銭そのものに加えて、鋳型や鋳棹、未製品、各種工具などが、当時の製造技術を伝える一体的な資料として評価されています。
ここで重要なのは、富本銭の価値が単に「古いお金」であることにとどまらない点です。鋳造の工程が分かる資料と、国家や宮廷に物資を供給していたことを示す木簡などがそろうことで、貨幣生産を支えた組織や技術まで考察できるようになったのです。
【和同開珎・無文銀銭と比較】富本銭との違いは何か
富本銭を理解するには、和同開珎だけでなく、無文銀銭や中国の開元通宝との関係も押さえる必要があります。これらは同じ「古代のお金」に分類されますが、素材、形状、年代、使われ方には違いがあります。
無文銀銭は、富本銭より前の段階を考えるうえで重要な銀製の貨幣資料です。表面に銭文がなく、銀片を貼り付けて重さを調整したものも確認されています。日本銀行金融研究所の貨幣博物館では、銀そのものの価値を基準に使われた可能性が紹介されていますが、こちらも使用実態には議論が残ります。
一方、和同開珎は708年、和銅元年に発行された銅銭です。唐の開元通宝をモデルとし、国家が銭貨の使用を広げようとした時代の貨幣として知られています。平城京の造営などに伴う支払い手段としても利用されました。
主な違いをまとめると、次のとおりです。
- 無文銀銭:銀製で、銀の重量や素材価値に基づく利用が考えられる。富本銭との先後関係や実際の機能には検討課題が残る。
- 富本銭:7世紀後半の鋳造銭貨。銅を主体とする合金で、唐の開元通宝と共通する規格や思想的背景がうかがえる。
- 和同開珎:708年に発行。国家による貨幣政策と流通の仕組みが、富本銭の時代より具体的に確認できる。
- 開元通宝:唐で流通した銅銭。富本銭や和同開珎の形状・規格を考えるうえで重要な比較対象となる。
特に注意したいのは、「富本銭が和同開珎より古い」という事実と、「富本銭が和同開珎と同じように広く流通した」という主張は別だということです。鋳造された年代が古くても、その銭貨がどこまで使われたのか、何を買えたのか、国家がどの程度流通を管理したのかは、別途検証しなければなりません。
また、和同開珎は富本銭より軽い規格だったとされますが、重量や形状が似ていることだけで、富本銭が開元通宝を直接模倣して造られたとすべて説明できるわけではありません。東アジアの貨幣文化を取り入れながら、日本独自の制度が形成されていく過程を踏まえて考える必要があります。
【流通の実態】富本銭は貨幣だったのか、厭勝銭だったのか
富本銭をめぐる最大の論点は、実際に売買のために使われたのか、それとも厭勝銭として造られたのかという問題です。
厭勝銭とは、災いを避けたり、幸運や繁栄を願ったりする目的で用いられる銭です。一般的な貨幣のように、商品の価格を表したり、日常的な支払いに使ったりすることを主目的としない点が特徴です。護符や縁起物に近い性格を持つ銭貨も、この考え方に含まれます。
富本銭の厭勝銭説では、表面の「富本」という文字や七つの星の模様が注目されます。「富本」は富や繁栄を連想させる銭文であり、星の意匠についても、陰陽五行思想や七曜との関係が指摘されています。こうした象徴的な意匠から、まじないや吉祥のために造られた可能性が論じられてきました。
しかし、意匠が縁起のよい意味を持つことだけで、貨幣として使われなかったと結論付けることはできません。古代の銭貨には、経済的な機能と国家の権威、吉祥の意味が重なっていた可能性もあります。
一方、流通貨幣説を支える材料として重視されるのが、飛鳥池遺跡から見つかった鋳型や未製品などの存在です。これらは富本銭が実際に生産されていたことを示します。さらに、『日本書紀』の683年の記事にある銅銭使用政策との関連も、貨幣としての利用を考える根拠となっています。
ただし、鋳造された事実は、広く流通した証拠と同じではありません。大量生産の規模や生産体制、出土した場所の分布、価格を示す史料、実際の取引に使用されたことを示す記録などを総合的に検討する必要があります。
東京大学の研究紹介や日本銀行金融研究所の研究資料でも、初期貨幣をどのように評価するかについて複数の見解が示されています。富本銭が流通貨幣だったのか、厭勝銭的な性格が強かったのかという問題は、単なる模様の解釈ではなく、7世紀後半の国家が貨幣制度をどこまで整備していたかという大きな歴史問題につながっています。
現時点で整理できるのは、富本銭が実際に鋳造されたことは考古資料によって裏付けられている一方、流通の範囲や機能については、確定的な結論が出ていないということです。厭勝銭説か流通貨幣説かという二者択一だけでなく、時期や用途によって複数の役割を担った可能性も、検討すべき論点です。
【現在の価値と研究課題】富本銭から何が分かるのか
富本銭の価値を考えるときは、古代の貨幣としての価値と、現代の骨董品・収集品としての価値を分ける必要があります。
古代における富本銭の購買力、交換比率、当時の賃金や物価との関係は、十分には分かっていません。和同開珎についても、国家による使用促進策や支払いへの利用を示す資料はありますが、その価値を現代の円に単純換算することは困難です。富本銭については、さらに情報が限られています。
また、現代の市場で富本銭がいくらになるかという問題も、古代の貨幣価値とは別です。真正品かどうか、来歴、保存状態、考古資料としての扱いなどが重要になります。発掘された富本銭は文化財として保管・研究される資料であり、一般的な古銭の相場をそのまま当てはめることはできません。
今後の研究で特に重要になるのは、次のような課題です。
- 鋳造年代の特定:富本銭がいつ造られ始め、いつまで生産されたのか。
- 流通範囲の解明:飛鳥周辺に限られたのか、それともほかの地域でも日常的に使われたのか。
- 無文銀銭との関係:銀銭から銅銭への移行が、実際の経済活動でどのように進んだのか。
- 貨幣としての価値:何を買えたのか、どのような交換比率で使われたのか。
- 厭勝銭との関係:経済的な機能と、まじない・吉祥の意味がどのように共存していたのか。
2026年の飛鳥池遺跡出土品の国宝指定に関する動きは、こうした課題を考えるうえでも大きな意味を持ちます。富本銭だけを切り離して見るのではなく、鋳造に使われた道具や工房の構造、木簡に記された物資の供給先などと組み合わせることで、貨幣が生まれた社会の仕組みをより具体的に復元できるからです。
古代の貨幣史を理解する際は、「最古」という言葉だけに注目するのではなく、何が確認され、何が推定され、何がまだ分かっていないのかを分けて考えることが大切です。富本銭の研究は、日本の貨幣がどのように生まれ、国家の制度や人々の経済活動と結び付いていったのかを考える手掛かりになっています。
【富本銭】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:富本銭は日本最古の貨幣ですか?
A1:富本銭は、日本最古級の鋳造貨幣と考えられています。ただし、それ以前の貨幣資料として無文銀銭も知られています。「最古の鋳造貨幣」と「日本で最初に使われたお金」を同じ意味で扱わないことが大切です。
Q2:富本銭は683年に発行されたのですか?
A2:683年は天武天皇12年にあたり、『日本書紀』には銅銭の使用を命じる趣旨の記録があります。この銅銭を富本銭と関連付ける説がありますが、683年が富本銭の正確な鋳造開始年だと確定しているわけではありません。
Q3:富本銭と和同開珎は何が違いますか?
A3:富本銭は7世紀後半に造られたと考えられ、和同開珎は708年に発行されました。富本銭は鋳造の事実が確認されている一方、流通範囲や用途には議論が残ります。和同開珎は国家による貨幣政策や支払いへの利用が、より具体的に確認できる銭貨です。
まとめ:富本銭を正しく理解するための判断基準
富本銭は、708年の和同開珎より古い7世紀後半の鋳造貨幣であり、飛鳥池遺跡から出土した完成品や未製品、鋳型などが、その生産を裏付けています。683年の天武天皇による銅銭使用政策との関連も指摘され、日本の貨幣制度が成立していく過程を考えるうえで欠かせない存在です。
一方で、富本銭がどの程度流通したのか、実際の取引に使われたのか、それとも厭勝銭としての性格が強かったのかについては、今も議論が続いています。無文銀銭との関係や、当時の貨幣価値についても、研究を深める余地が残されています。
富本銭について情報を見極める際は、第一に「7世紀後半の鋳造貨幣」という考古学的な事実、第二に「683年の政策との関係」という歴史的な解釈、第三に「流通貨幣か厭勝銭か」という未解決の論点を区別することが重要です。
2026年の国宝指定に関する動きによって、富本銭を含む飛鳥池遺跡の資料群は、貨幣の歴史だけでなく、古代国家の生産技術や社会の仕組みを伝える資料としても注目されています。今後、新たな出土資料や分析結果が加われば、日本最古級の銭貨が担った役割について、さらに具体的な姿が見えてくる可能性があります。 (出典: 富 本 銭(Yahoo!ニュース))